若瀬川 泰二(わかせがわ たいじ、1920年2月20日 - 1993年9月3日)は、兵庫県尼崎市出身で荒磯部屋(入門時は伊勢ヶ濱部屋)に所属大相撲力士。本名は服部 忠男(はっとり ただお)。最高位は西小結(1950年9月場所)。身長176cm、体重110kg。得意手は右四つ、突っ張り、吊り、外掛け。

引退後は年寄・浅香山を襲名し、相撲解説者も務めた。

人物・来歴

14歳の時に伊勢ヶ濱部屋へ入門し、1935年1月場所で初土俵。入門時より期待されており、当初から部屋の先輩幕内力士、若瀬川の四股名を譲られていた。1940年5月場所で新十両、1942年1月場所で新入幕、同時に入幕した輝昇、神風とともに「新入幕三羽烏」と称され将来を嘱望された。

1944年11月に後楽園球場で10日間行われた本場所では終盤まで全勝、優勝も期待された。だが、三根山に敗れ、9勝1敗の優勝同点に終わった。1946年11月場所11日目から途中休場を喫したことで5日目から休場した照國、7日目から途中休場した備州山を含めて同部屋の幕内力士が同一場所に於いて3人途中休場するという珍事に至った。最高位は小結に留まったが、38歳までの間長く幕内上位に定着し、1959年1月場所限りで引退するまで、「年増ネコ」と呼ばれる人気力士であった。ちなみに、双葉山と対戦した力士の中で、一番遅くまで現役を務めた。対戦成績は若瀬川の0勝3敗で、1950年9月場所後に風水害義援金募集大相撲で双葉山(当時は年寄・時津風)と再戦したが、左上手投げで敗れてしまった。引退後は年寄・浅香山を襲名し、後進の指導に当たった。

現役時代から能弁で知られ、1957年に日本相撲協会の運営の在り方が国会で議論された際にも、衆議院文教委員会に参考人として答弁に立ち、力士の立場を訴えた。そういうこともあって、引退後から当時の民放での相撲放送の解説者として活躍、民放撤退後はしばらく勝負審判など協会の仕事に専念していた。1985年の停年(定年)退職後はNHKの解説者・若瀬川忠男となり(1991年1月場所まで)、その能弁かつ人情味あふれる解説は佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴櫻)とお茶の間の人気を二分し大相撲中継の印象がアップした。

1993年9月3日、膵臓癌のため東京都墨田区内の病院で逝去。73歳没。

取り口

前捌きの名人として知られた相撲巧者であった。若い頃は突っ張り、右四つからの吊りが得意だったが、次第に技巧派の取り口へと変わった。

主な成績・記録

  • 通算成績:414勝434敗19休 勝率.488
  • 幕内成績:352勝395敗19休 勝率.471
  • 現役在位:65場所
  • 幕内在位:54場所
  • 三役在位:1場所(小結1場所)
  • 三賞:4回
    • 敢闘賞:1回(1957年9月場所)
    • 技能賞:3回(1948年5月場所、1954年3月場所、1958年11月場所)
  • 雷電賞:1回(1957年9月場所)
  • 金星:7個(羽黒山2個、千代の山1個、鏡里3個、栃錦1個)
  • 各段優勝
    • 幕下優勝:1回(1940年1月場所)

場所別成績

幕内対戦成績

改名歴

  • 若瀬川 忠雄(わかせがわ ただお)1936年5月場所 - 1940年1月場所
  • 若瀬川 泰二(わかせがわ たいじ)1940年5月場所 - 1959年1月場所

年寄変遷

  • 浅香山 泰範(あさかやま やすのり)1959年1月 - 1985年2月

脚注

関連項目

  • 小結一覧
  • 若瀬川剛充
  • えびすこ

外部リンク

  • 若瀬川 泰二…『相撲人名鑑』
  • 若瀬川 泰二 - 相撲レファレンス

【販売済】二代 川瀬表完 柳蒔絵平棗 the 2nd kawase, hyokan willow tree flat tea

《トップインタビュー2024》パルコ社長 川瀬賢二氏 従来型SCを超えた取り組み 繊研新聞

若瀬川 泰二 力士情報

「セクションのなかで育てられ」by川瀬 達也 (NJPティンパニ奏者) 新日本フィルメディア

川瀬陽太 (YOHTAK) / Twitter